「幸せのはひふへほ」と「あたりまえ」の詩に反響が! |
更新日:
2011年11月05日
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☆在家仏教11月号に妙心寺派長福寺の上沼雅龍師の一文が掲載。その中に「しあわせのはひふへほ」という言葉が印象に残ったので紹介します。上沼師は「自分の欲を減らしていけば、周りが何一つ変わらなくても、自分が幸せに近づける。つまり仏様の心になれる」と説く 『幸せのはひふへほ』 「は」は、半分でいい。 「ひ」は、人並みでいい。 「ふ」は、普通でいい。 「へ」は、平凡でいい。 「ほ」は、程ほどでいい。
☆若き青年で、将来を嘱望されながら、32歳の若さで癌で亡くなった医師井村和清氏が書いた『飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ』の本より抜粋。リハビリ中のご門徒さんが、リハビリ室の入り口に貼られた詩に感動して、私に手紙を下さいました。坊守スケッチ3月号(207号)に掲載した所、多くの反響が寄せられました。詳しくは善正寺だよりをご覧下り口に貼られた詩に感動して、私に手紙を下さいました。坊守スケッチ3月号(207号)に掲載した所、多くの反響が寄せられました。詳しくは善正寺だよりをご覧下さい。
『あたりまえ』 井村和清作 こんなすばらしいことを、 みんなはなぜよろこばないのでしょう。
あたりまえであることを。 お父さんがいる。お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。 行きたいところへ自分で歩いて行ける。 手を伸ばせばなんでもとれる。 音が聞こえて声がでる。
こんなしあわせはあるでしょうか。
しかし、だれもそれをよろばない。 あたりまえだ、と笑ってすます。
食事が食べられる。 夜になるとちゃんと眠れ、 そして、また、朝がくる。 空気を胸いっぱいにすえる。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる。 走り回れる、 みんなあたりまえのこと。
こんなすばらしいことを、 みんなは決してよろこばない。
そのありがたさを知っているのは、 それをなくした人たちだけ。
なぜでしょう。あたりまえ。
『飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ』より
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